パール判事とレーリング判事と東京裁判
2007年9月9日
宇佐美 保
8月26日、たまたま、テレビのチャンネルを動かしていたら、NHKの衛星第2放送から『パール判事は何を問いかけたか〜東京裁判 知られざる攻防〜』との番組が私の目に飛び込んできました。
(残念ながら途中からでしたが)
そして、直ぐに録画ボタンを押しました。
そして、感銘を受けましたので、文字起しをしました。
しかし、作家の山口泉氏は『週刊金曜日(2007.8.31号)』にて、この番組に批判的な見解を披露していますが、この件は、文末(補足)にて取り上げさせて頂きます。
では、番組の途中からですが、文字起しを始めます。
・・・200年以上にわたりイギリスの植民地支配を受けたインドの中でもこの町は独立運動の中心になっていました。 町の中心部にあるフェデレーションホール、かつて独立運動の拠点であった施設です。 その図書室にパール判事がおよそ60年前東京で書き上げた独自の判決書が保管されていました。 パール判事が裁判の後持ち帰った原本です。 自らタイプライターで打った1200ページあまりの記述、手書きで修正を加えた後も残っています。 パール判事の思想に基づく主張が随所に記されていました。 その一つが西洋諸国に対する植民地支配に対する強い批判です。 「西洋諸国が今日東半球の諸領土において所有している権益は、すべて主として武力をもってする暴力行為によって獲得されたものであり、これらの諸戦争のうち「正当な戦争」と見られるべき判断の標準に合致するものはおそらく一つもないであろう」 非難の矛先は日本にも向けられています。 満州国建国を例に日本の帝国主義を西洋諸国を真似た行為だったとしたのです。 「満州の舞台において満州国という狂言を演ずる力も、また満州の支配権を握る力も日本の武力によって獲得されていたのである、これはある点では西洋諸国のやり方を模倣したいという願望にその原因を求めうることもあろうと考えられる、この願望とは明治時代の初期から日本人の心の中に一つの固定観念になっていたものである」 |
このように、パール判事は、「西洋諸国の植民地支配」を断罪し、「日本の支配」も、その模倣と断罪しています。
パール判事の思想の根底には何があったのか? 長男で弁護士のプロシャント・パールさんを訪ねました。 物静かな普段の姿からは想像も出来ない強い信念を持っていたと言います。
インド独立の父マハトマ・ガンジー イギリスに対する抵抗運動を率いたガンジーは様々な迫害を受けながらも絶対的な平和思想に基づく非暴力による抵抗を貫きました。
だからこそ、パール判事の目には2度の世界大戦のような暴力はきわめて苦痛に満ちた出来事と写ったに違いありません。 |
このように「パール判事の思想の根底」には、「平和主義」が存在していた事は明らかです。
パール判事の判決書には、この暴力を憎む考え方があちこちに記されています。 それは日本軍の残虐行為にも向けられています。 フィリピンで捕虜を虐待したとされる
「“バターン死の行進”は実に極悪な残虐である、灼熱の太陽下120キロメートルにわたる9日間の行軍の全期中、約6万5000名の米国人およびフィリピン人ふ虜(捕虜)はその警備員によって蹴られ殴打された病気あるいは疲労のために行進から落伍した者は射殺されあるいは銃剣で刺されたのであった
「宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆はたまた戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。
「それらは戦争の全期間を通じて異なった地域において日本軍により非戦闘員に対して行われた残虐行為の事例である主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定し得ない」 |
このように「日本軍の残虐行為」を断罪しています。
更に、
「非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば太平洋戦争においては この原子爆弾使用の決定が第二次世界大戦中におけるナチス指導者の指令に近似した唯一のものである」 日本であれ連合国であれ残虐行為を徹底して憎むパール判事 そこには絶対的な平和思想が貫かれていました。 |
次に出てきます「パトリック判事の多数派工作」に関しては、私が見損なっていた番組のはじめには説明があったのでしょうが、お読み頂ければご推測可能と存じます。
1947年(昭和22年)4月法廷では弁護側の反証に入っていました。 まもなく開廷から1年裁判は長期化の様相を見せていました。 このころパトリック判事に同調していたのは、同じイギリス連邦のカナダとニュージーランドの二人だけでした。 パール判事は全く妥協しそうにありません。 ウェッブ裁判長は判事団を纏める事が出来ずパトリック判事たちとは感情的に対立していました。 パトリック判事たち3人は弱気になっていました。
パトリック判事はイギリス本国へ3人(イギリス・カナダ・ニュージーランド)の辞任という選択肢を提案していました。 それは、東京裁判崩壊の危機を意味していました。 イギリス代表部の外交官は、判事団内部の異変を知らせようとマッカーサー司令官のもとを訪れました。 東京裁判はマッカーサー司令官の名前で設置されていました。 そのマッカーサー司令官が裁判所憲章に従わない判事を許すはずが無い。 しかし、期待は裏切られました。 イギリス代表部は本国にこう報告しています。 「マッカーサー司令官はパトリック判事の危機感は持っていなかった。」 オランダ代表のレーリング判事はマッカーサー司令官の言葉を直接聞いていました。
鹿児島大学で国際関係論を専門とする日暮吉延教授:世界中の資料を集めて分析し東京裁判を国際情勢の視点から実証的に捉えようとしています。 「国際裁判という形での東京裁判には元来批判的だったのですね。で、マッカーサーは数度ワシントンに対してアメリカの単独裁判が出来ないかということを具申しています。 マッカーサーは、まあ、言ってみると、いやいやしぶしぶこの東京裁判をしていた」 しかし、イギリス政府にとって東京裁判は極めて重要な意味を持っていました。 アーネスと・ベウィン(イギリス)外相は、パトリック判事の辞任は認められないと考えました。 「東京裁判を放棄すれば、その影響は破滅的だ、ヨーロッパの威信が、粉々になってしまうだろう」 イギリスの東京裁判研究の第一人者ジョン・プリチャードさん、
としています。 「もし、東京裁判で侵略戦争は国際法に於いて犯罪ではない、それを裁く国際法の根拠は無いと言う判決が出されたとしたら、そこからどんな害が生まれたか考えてみてください。 ニュルンベルクでの経験が全て台無しになっていたでしょう。 当時は、ナチスの犯罪を徹底的に裁く事が一大プロジェクトだったのです。 そして、ヨーロッパの平和を守ろうとする全ての国が強調して取り組まなくてはいけない時代だったのです。」 パトリック判事には東京に留まり、自ら判事団を纏める事しか道はありませんでした。 |
ここで、パトリック判事の思い(ニュルンベルク裁判に続き東京裁判を成功させる事が、イギリスの歴史的使命)と、マッカーサー司令官の思い(東京裁判には反対で、真珠湾を裁く短期の軍法会議(アメリカの単独裁判)を開けば他には何も必要ない)と違いが分ります。
そして、多数派工作を行うパトリック判事に距離を置くパール判事は、「オランダ代表レーリング判事」に働きかけ、成功します。
この間パール判事は、理解者を得ることに成功していました。 オランダ代表レーリング判事、裁判が始まる前、たとえ意見が違っても少数意見を明らかにしないと言う合意を提案した判事です。 法廷ではパール判事と常に席が隣り合わせでした。 オランダのデンハーグにあるオランダ国立公文書館にパール判事がレーリング判事に働きかけていたことを示す資料が残っていました。 レーリング判事が法廷でつけていた日記、その中に別の筆跡で書き込みがあります。 ラダビノード・パールのサイン、そこには戦勝国の判事達は憎しみや仕返しの感情に捉えられている。そのため後から作った法律で侵略戦争を犯罪としてしまうのだと書かれています。 レーリング判事の母国オランダは第2次大戦勃発の翌年ナチスドイツに全土を占領されます。 レーリング判事はナチスに対して反抗的な態度をとり、国境に近い小さな裁判所に左遷されました。(旧ミドルブルグ地方裁判所)
レーリング判事の三男ヒューゴ・レーリングさんは、アムステルダム大学の歴史学教授の教授でした。 父親からパール判事の事や東京裁判のことを聞いていました。 「それは、父にとって一つの冒険でした。そして、その冒険によって父は成長したんです。 日本に行くまでは、東京裁判という一大イベントに参加して、日本人に物を教えてやろうという傲慢な気持ちだったと思います。 ところが帰国したら全く別人になっていました。」
レーリング判事はパール判事の考えを理解していました。 そして、次第に共鳴するようになっていたのです。 レーリング判事がパール判事に近い考えを持っている事は判事団にも伝わっていました。 パトリック判事達は他の判事を取り込んで多数派を作ろうと考えました。 決して社交的とはいえないパトリック判事にとってそれは楽な仕事ではありませんでした。 しかも、結核と心臓病を患っていたのです。 ジョン・プリチャードさん(イギリス人歴史家) 「パトリック判事は人生最大のキャンペーに乗り出す決意をしたのです。それはイギリス史上他の判事がしたことのない重要なキャンペーンでした。そのために彼は健康を犠牲にし、もう少しで死ぬところでした。」 日暮教授 「最悪の事態をパトリックは若しかしたら見ていたのかもしれません。7人8人少数意見だとか、あるいは11人全員が少数意見を出すとか、ま、つまりは統一判決が出ない。これはもう裁判の体をなさなくなりますから、まあ、初めから東京裁判の判決が決まっていたというのは俗論でありまして、この判事団の内部状況を見る限りは、相当に動く可能性流動性というものが存在したんだなと言う事が分ります」 パトリック判事らと距離をとるようになったレーリング判事、1948年7月6日友人の外交官へ手紙を送っています。 ニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に当てはめようとする多数派への反発が示されています。 「多数派の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねる事に嫌悪の念を抱くようになりました。これは全く極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷いものです。もっと議論を重ねなくてはならないはずです。」 レーリング判事の心変わりにオランダ政府は気づいていました。 法学者による意見書を送りニュルンベルクの判決に従い多数派に加わるべきだと繰り返し伝えていました。 オランダ政府からレーリング判事への公電(1948年7月15日) 「我々は貴方が職務を全うし自ら問題の解決方法を見つけ多数派の判決に問題なく署名するよう要望する。オランダ政府は反対意見の公表は極めて好ましくないと言う意見を持ち続けている。」 オランダ政府から強い干渉を受けていたレーリング判事の心を決めたのはパール判事の言葉でした。 レーリング判事 “パール判事が言ったのです。「(少数意見を発表しないという)判事団の約束には従わない」「私にはあなた方と違う意見がある」「私にはそれを発表する権利がある私の国の慣習でぜひそうしたい」そのため私も少数意見を出す決心をしたのです” その決断を知ったパール判事がレーリング判事にあてた手紙です(1948年10月11日) “あなたがこの裁判への反対意見を書くとついに決意したと聞き心から嬉しく思っています。たとえ世界の人々の意見に反する事だったとしても自らの信念を犠牲にしてはならないはずです” |
レーリング判事は、オランダ政府から強い干渉を受けながら、パール判事の言葉に力を得て独自の立場(パール判事の判決とも異なる)を貫かれた事が分ります。
1948年(昭和23年)夏、法廷での実質的な審理が終わり休廷に入っていました。 パール判事はホテルの部屋にこもり判決を書き続けていました。 戦後来日した時、日本の国際法の専門家に語った肉声です。 「私は判決書を作成する以外一切時間を使っていない 裁判の期間中一度も日本を見て回ることもしなかった 全期間を費やして取り組んだのだ」 そして、書き上げられた1235ページの独自の判決書 パール判事は日本の戦争指導者の誤りを指摘しています。 「日本の為政者・外交官および政治家らはおそらく間違っていてのであろう、またおそらく自ら過ちを犯したのであろう」 しかし、結論は被告全員は無罪 後から作った戦争犯罪の規定に従って裁く事は認められないと言う考えは最後まで変りませんでした。 「第二次世界大戦以前にあっては国際法の発展の程度ではまだこれらの行為を犯罪もしくは違法とする程度には至っていなかった」 カルカッタ高等裁判所の元長官A.M.バタチャルジー判事、パール判事の後輩です。 東京裁判についてパール判事と議論したと言います。 「パール判事は、“自分の判決を根拠に、日本の侵略行為が支持される事があってはならない”と言っていました あの当時侵略戦争は国際法上では犯罪と認められないとの立場でしたが、イギリスであれアメリカであれ日本であれ侵略戦争は悪い事だと言っていました。」 |
どうも、近頃では、パール判事の「被告全員は無罪」だけを押し頂くのみで、「自分の判決を根拠に、日本の侵略行為が支持される事があってはならない」の見解を全く無視している点が不安でなりません。
そして、私は、次のような「レーリング判事の意見書」の存在を初めて知りました。
パール判事に共感していたレーリング判事、自分が言い出した合意を破り多数は判決に反対する意見書を書きました。
「一人一人の被告の責任について熟慮を重ねたものです。 その内容は多数派とは異なり
一方、パール判事とも異なり、
更に、
パール判事の思想に強い影響を受けたレーリング判事は、戦争を国際法によって裁くことの意義を自分なりに見出しました。 それは将来2度と戦争を起こさないと言う目的でした。 レーリング判事 “私たちは戦争を禁止するという一つの大きな流れの中にいました、その流れは強めるべきものでした、なぜなら世界は戦争禁止を必要としていたからです、裁判によって敗者を裁くことだけが、戦後の国際法を前進させる唯一の方法でした。” |
レーリング判事は、「広田元首相」を無罪としていますが(筆者注:11人のうち5人は、広田の死刑に反対)、岡崎久彦氏(外交評論家・岡崎研究所所長)は、“私の個人の判断ならね、悪いのは、近衛、広田、杉山(陸軍大臣)。・・・戦争責任者はこの3人。”と2006年7月末に放送された番組「朝まで生テレビ!」で吼え捲くっていました。
(拙文《朝まで生テレビ「昭和天皇と靖国神社」を見て(1)》をご参照下さい)
とても恐ろしい事です。
この方が、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の一員であり、且つ、安倍首相のブレーンの一人と見られているのですから。
(拙文《「闘う政治家」を詐称して「戦う国へ」導く安倍氏》等もご参照下さい)
パトリック判事達3人の多数派工作は実を結んでいました。 ウェッブ裁判長とはしこりを残したままでしたが、アメリカ、ソビエト、中国、フィリピンと4人の判事が多数派に加わりました。合計7人、過半数を超えたのです。 一方パール判事は、ウェッブ裁判長へ手紙を書きました(1948年11月1日) 「私が如何に強く反対意見を抱いているか既にお分かりのはずだ。私は自分の反対意見が公開の法廷で朗読される事を切望する」 1948年11月12日 “被告広田弘毅絞首刑、被告東条英機絞首刑” 判決書は25人の被告全員を有罪とし、7人を死刑としました。 通例の戦争犯罪に加え東京裁判の裁判所憲章に規定された平和に対する罪、人道に対する罪を認めたのです。 ウェッブ裁判長は、自分を含め5つの少数意見が提出され、特にパール判事は全面的な反対意見書を書いたことを明らかにしました。 しかし法廷で読み上げる事はしないと宣言しました。 こうして二年半にわたる東京裁判は終わりました。 3年後、日本はサンフランシスコ講和条約に調印、東京裁判の判決を受け入れ国際社会に復帰しました。 |
東京裁判には「5つの少数意見」が提出されていたのでした。
戦後、パール判事は3回来日し、各地で講演を行っています。 講演の記録「平和の宣言(パール判事著 田中正明編)」には、戦争を憎むパール判事の一貫した思想が綴られています。 「私は日本に来て1か月 日本の各地を回り多くの日本人に接してきた、その感想をひと言で言うならば、“日本は美しい国である”という一語に尽きる この麗しい自然の恵みの中に育ちかつ成長した国民がどうして戦争などということを考えるのかと怪しまざるをえない、私は繰り返して申し上げたい、戦争というものは平和への方法としては失敗であると、われわれはもはやこの失敗を重ねてはならない」 |
「戦争を憎むパール判事」の思いとは裏腹に、“日本は美しい国”で、育ちかつ成長した国民は、先の戦争同様に、『美しい国へ』の旗印を掲げる安倍氏によって、米国ブッシュ大統領が世界各地に仕掛ける「テロとの戦争」という奇妙な戦争に、追いやられようとしているのです。
恐ろしい事です。
パール判事とは異なり、安倍氏は、『美しい国』とは、『赤紙一枚で命を落とす国民の国』と解釈しているのでしょうか?!
1996年10月最後の来日を果たしたパール判事の肉声が残っています。 国際法の専門家のインタビューに答え、戦後、
。 国際法専門家「日本人は自分自身で独自の判決を下すべきだと思います。自らの行為を振り返り愚かな行為を繰り返さないと誓うべきだと思いますが・・」 パール判事「それは日本の皆さん自身が考えるべき問題です。しかし日本だけでなく
だと私は思います。なぜなら誇張せずに言わせていただければ、
からです。武力は全く無意味になったのです。」 パール判事はこの3ヵ月後81歳の生涯を閉じました。 オランダのレーリング判事は帰国後国際法の第一人者となり名門フローニンゲン大学の法学部教授に迎えられました。 パール判事との交流は戦後長く続きました。 そして、大学に平和研究所を設立し、
東京裁判の判決を導いたパトリック判事はスコットランド最高裁判所の判事に戻りました。 東京で悪化させた健康状態は回復することなくその後亡くなりました。 判決が認めた二つの戦争犯罪の概念、「人道に対する罪」は戦後の国際法で定着し4年前に設置された国際刑事裁判所でも規定されています。 「平和に対する罪」については、侵略戦争の提議をめぐって議論が続いています。 判事達が二年半にわたり攻防を繰り広げた東京裁判、どのように戦争犯罪を裁くのか、そしてどう平和を実現してゆくのか、パール判事が投げかけた問いは今なお世界に向けられています。 |
この素敵な番組の最後に掲げられた言葉(・・・パール判事が投げかけた問いは今なお世界に向けられています)がなんとも不満です。
「パール判事が投げかけた」のは「問い」ではなく「策(道)」ではありませんか!?
「戦争犯罪を裁くのか」それは「事後法ではなく、人道に対する罪のみならず平和に対する罪も早急に国際刑事裁判所で規定すべき!」です。
そして、更に「どう平和を実現してゆくのか」は「世界の国々が武力を捨てて政治を考えるべき」とパール判事は宣言しているのです。
NHKは、何故この大事な点をはぐらかせてしまったのでしょうか?!
更に、レーリング判事は、「戦争を国際法によって裁くことの意義を、将来2度と戦争を起こさないと言う目的と自分なりに見出し」、且つ、「私たちは戦争を禁止するという一つの大きな流れの中にいました」と語っておられたのに、安倍氏は『美しい国へ』の中で、次のように記述しているのです。
・・・五一年のサンフランシスコ講和条約の締結によって、形式的には主権を回復したが、戦後日本の枠組みは、憲法はもちろん、教育方針の根幹である教育基本法まで、占領時代につくられたものだった。憲法草案の起草にあたった人たちが理想主義的な情熱を抱いていたのは事実だが、連合軍の最初の意図は、日本が二度と列強として台頭することのないよう、その手足を縛ることにあった。 |
このように歴史を見る眼を持たない安倍氏は、当然ながら、人材を見る眼を持たない為、不適格な人材を次から次へと、自身の閣僚へと投入し続けているのです。
そして、安倍氏は次のような戯言を掲げているのです。
国の骨格は、日本国民自らの手で、白地からつくりださなければならない。そうしてこそはじめて、真の独立が回復できる。 |
しかし、NHKスペシャル「日本国憲法誕生」の番組では、幣原首相自らが、マッカーサー司令官に「戦争を放棄」を告げていた事を次のように紹介していました。
1946年1月24日幣原はマッカーサーを訪ねる 会談内容は 幣原首相:自分は生きている間に天皇制を維持したい。 マッカーサー:天皇制を廃止すべしという強力な意見もでているが、一滴の血も流さず進駐出来たのは全く日本の天皇の力によるところが大きい、できるだけの事は協力したい
マッカーサーは後に、この会談で幣原首相が憲法の中に戦争放棄の規定を入れるように努力したいと証言している |
即ち、「日本国の骨格である戦争放棄」は、日本国首相の幣原氏から提言されているのです。
更に、安倍氏は「日本国民自らの手で・・・」と記述していますが、現在とんでもない人物を首相に戴いている(戴き続けている)のは「日本国民自らの手で・・・」でもあるのです。
どんな白紙からでも、「日本国民自らの手で・・・」と持ち上げられた結果、「我々日本国民」は、為政者の扇動によっていかなる決定でもしてしまうのです。
(先の戦争も然りでした!)
ですから、容易に「戦争が出来る憲法」を「日本国民自らの手で」誕生させてしまうでしょう。
レーリング判事の談話にあるように、“私たちは戦争を禁止するという一つの大きな流れの中にいました、その流れは強めるべきものでした、なぜなら世界は戦争禁止を必要としていたからです”という時に、更には、パール判事の「戦争というものは平和への方法としては失敗であると、われわれはもはやこの失敗を重ねてはならない」との認識が存在していた時代に、「憲法草案の起草にあたった人たちが理想主義的な情熱を抱いていた」状況で、幣原首相の「世界から信用をなくした日本にとって戦争を放棄すると言うようなことをはっきりと世界に声明する事それだけが日本を信用してもらえる唯一の誇りとなる事ではないだろうか?」との認識の下でこそ、「戦争放棄」を謳った我が国の平和憲法が出来上がったのです。
これぞ『奇跡の憲法』ではありませんか!?
(拙文《平和憲法は奇跡の憲法》をご参照下さい)
そして、パール判事は、日本が得た平和憲法の精神が世界に広がって欲しいと訴えています。
(補足)
山口泉氏(作家)の今回紹介させて頂いた番組への批判が『週刊金曜日(2007.8.31号)』に掲載されていましたので、その一部を抜粋させて頂きます。
・・・第二次世界大戦の前史には近代西欧列強の非西欧圏侵略があり、日本はそれを模倣したとのパール判事の認識は、むろん誤ってはいません。日本軍の残虐行為への批判も、一応はなされました。ただし、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は「事後法」である″とのパール判事の主張にも、実は私は必ずしも与しませんが。 |
この事後法に関しては、私は、前掲の「戦争を国際法によって裁くことの意義を自分なりに見出しました。それは将来2度と戦争を起こさないと言う目的でした。」とのレーリング判事の見解を肯定します。
人間社会では、予期できない事態(事件)が数々発生します。
それらに対して全て前もって法律を制定しておく事は不可能でしょう。
最近では、安倍内閣の閣僚たちは事務所経費をどんなに水増ししていても“法律通りに処置している”と白を切っています。
人間社会には「法律」以上のもの(政治家に「倫理道徳」を求めるのは「八百屋へ行って魚を求めるようなもの」とどなたかがおっしゃったようですが?(逆でしたかしら?それに、今では「八百屋」ではなく「青果店」と、「魚屋」は「鮮魚店」と書かなくてはいけないのでしたかしら?)
ところで一体これは、どこの国の誰が作った番組なのでしょう?つまるところ単に裁判手続き上の公正さ″を主張したにすぎないパール判事の「少数意見」が、あたかも日本の侵略戦争の責任に関わる問題の一切の終結点であるかのような──。 |
おかしいですね、山口氏は、この番組を全て見たのでしょうか?
(と申します私は、初めの部分は見ていませんでしたが)日本の侵略戦争の責任に関して、“日本の皆さん自身が考えるべき問題です”と更に「戦争というものは平和への方法としては失敗であると、われわれはもはやこの失敗を重ねてはならない」とのパール判事の言葉を紹介しているのに!
仮にこれが、まったく無関係な国(そういうものが考え得るとして)の「歴史教養」番組なら、こうした傍観者風の擬似客観主義、似而非教養趣味も、かろうじて容認されるかもしれません。しかし、これは日本の「公共放送」を標榜するNHKが──戦前・戦中にあっては現在よりさらに露骨かつ強権的に「国策」を体してきた、天皇を頂点とするアジア侵略戦争に重大な責任を負うべき、当のメディアそれ自身が作っているのです。日本の最大の戦争協力機関の一つとしての自己検証が、ここにはそのかけらもありません。 |
確かに、NHKの責任には触れていませんでしたが、それは別の番組で検証してくださればよいと存じます。
揚げ句の果て、パール判事の思想を伝える書として現物を紹介されるのが田中正明編『平和の宣言』(一九五三年/東西文明社)であっては、制作側の意図は、まさしく語るに落ちるという気がします。田中は、南京大虐殺を犯した中支那方面軍の司令官・松井石板の私設秘書であり、戦後も松井の『陣中日記』を改竄してまで、その雪冤≠謀ろうとした人物でした。 |
『平和の宣言』の編纂者の田中正明氏がいかなる人物かは、兎も角、パール判事の意見書の翻訳本が存在するのでしょうか?
少なくとも、パール判事の「被告全員は無罪」に感謝された方々のうちのどなたも翻訳していなかったとしたら、なんだかおかしいですね?!
・・・ 折りしも、歴代最悪の愚昧な軍国宰相が、核武装せるIT大国インドを訪問し、日印関係の発展〃を謳い上げています。現在の対米追従の日本政府にはそれすらあるとは思いませんが、民衆の心性の問題として、日本の軍国主義を否定し得ない水準からしか、近代5世紀の白人による世界支配を批判できないアジア主義≠フゆくえにも、安全とせざるを得ません。 |
この「歴代最悪の愚昧な軍国宰相」との表現には全く依存はありません。
しかし、山口氏の「民衆の心性の問題として、日本の軍国主義を否定し得ない水準からしか、・・・」の危惧に対しては、「戦争というものは平和への方法としては失敗であると、われわれはもはやこの失敗を重ねてはならない」とのパール判事のメッセージこそが重要なのではありませんか!?
米国が、世界各国で引き起こす戦争で平和は齎(もたら)されていません!
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